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聖書語句の学び2「愛」(新約篇)

愛(新約篇)

 

前回は、旧約聖書から「愛」について学びましたが、今回は新約聖書から「愛」について学びたいと思います。

 

Ⅰ.「愛」に関する語彙
    旧約聖書のヘブル語と同じく、新約聖書には多様な「愛」の概念を表現するギリシア語があります。広義では「善意、親切、好意(エウノイア)」(エペ6:7)、「恵み、好意、愛顧(カリス)」(ルカ2:40等)、「熱情(パソス)」(Ⅰテサ4:5等)、「熱情(パセーマ)」(ロマ7:5等)、「狂気、熱狂(マニアー)」(使26:24)等も含みます。

しかし、ギリシア語には、狭義の「愛」を表す典型的な4つのギリシア語があります。そこで、まずこの4つのギリシア語とその同語源の言葉を取り上げ、その中で最も重要な「愛(アガペー)」の特徴を浮き彫りにしたいと思います。


 A.「愛(エロース)」
  1.意味
     主に男女の愛、複数形で情事、快楽、熱望等を意味します。固有名詞では、ギリシア神話の神「エロース」です。

古代ギリシアの哲学者プラトンの著作『饗宴(シュムポシオン)』の主題は「愛(エロース)」です。因みにフィレンツェの人文主義者でプラトン研究者マルシリオ・フィチーノ(1433-99)が、『饗宴』の注釈書「愛について」の中で初めて「プラトン的愛(amor platonicus)」という言葉を使いました。これがやがてキリスト教文化とプラトン主義哲学の融合により、今日の「プラトニック・ラブ(Platonic love)」つまり「精神的愛」の意味に変化しました。このようにプラトン『饗宴』の「愛(エロース)」は、プラトニック・ラブとは全く異質なものです。

  2.用例
     「愛(エロース)」は新約聖書には出て来ませんが、旧約のギリシア語訳(70人訳)には登場します。新改訳が「愛の喜び」と訳す箴言7章18節の「愛(オーハブ)」は、70人訳では「エロース」が用いられています。因みに同節前半の「愛(ドード)」は「フィリアー」(後述)と訳されています。両者とも同節では官能的な文脈で使用されています。また70人訳の箴言30章16節にも「(女の)愛(エロース)」と出てきますが、ヘブル語本文にはありません。

  3.派生語
     「愛する、手に入れたいと望む(エラオー)」(エス2:17)、「愛人(エラステース)」(エゼ16:33等)は、それぞれ「愛する(アーヘーブ/アーハブ」とその分詞の名詞的用法の訳です。「尋ねる、求める、願う(エロータオー)」(マコ7:26等)、「尋ねる、求める、願う(エペロータオー)」(マタ16:1等)も同語源です。

  4.本質的意義
     派生語の意味からも明らかなように、「エロース」の本質は、「求める愛」であると言えます。また聖書は、雅歌等でも男女の愛や性愛を肯定的に表現しており、この「愛(エロース)」も否定されるべきではありません。しかし新約聖書に用いられないということは、神が教えられる「愛」は「エロース」ではないということです。

 

 B「愛、愛情(ストルゲー)」

  1.意味
     動詞「愛する(ステルゴー)」と共に、主に親子間の自然な愛情を表します。さらに広く、家族間や王と民の間の愛情や満足の感情にも用いられます。

  2.用例
     これらの言葉は新約聖書には出ませんが、合成語「愛情深い(フィロストルゴス)」(ロマ12:10)が、また同語源の否定の形容詞「愛情がない、情け知らず(アストルゴス)」が出てきます(ロマ1:31,Ⅱテモ3:3)。

  3.本質的意義
     この愛は人間の堕罪の故に失われていますが、キリストの贖いと聖霊により回復が可能です。この愛も人間には不可欠ですが、神が教えようとされている「愛」ではありません。

 

 C.「愛、友愛(フィリアー)」

  1.意味
     語源は、形容詞「フィロス」で、受動的に「愛され(てい)る、愛すべき」、能動的に「愛のある、愛している、好意をもっている、親しい、友好的」(ルカ23:12)を意味します。新約では殆どは名詞として「友、友人」(ルカ7:6等)を意味します。

  2.用例
     新約聖書には「愛、友愛(フィリアー)」は1回のみ、動詞「愛する(フィレオー)」(マタ10:37等)が25回、そして形容詞「フィロス」が29回、合計55回出てきます。さらに合成形で多く出て来ます。

   a.「愛、友愛(フィリアー)」
      新約聖書には、ヤコブ書4章4節にしか出てきません。

   b.「愛する(フィレオー)」
      父なる神のイエス(ヨハ5:20)や弟子たち(同16:27)への愛、イエスの弟子への愛(ヨハ11:3,36,20:2)に用いられます。また弟子のイエスへの愛(同21:15,16,17,Ⅱコリ16:22)と人の父、母、息子、娘に対する愛に用いられますが、イエスへの愛と人を第一とする愛とは両立しないのです(マタ10:37)。因みにこの言葉は信者の神への愛には使用されません。

ヨハネの福音書21章15‐17節では、イエスのペテロへの最初の2回の問いは「愛する(アガパオー)」が、最後の問いとペテロの3回の答えが「愛する(フィレオー)」が使われています(新改訳脚注参照)。古代ラテン語訳は、前者を「愛する、重んずる(dīligō)」、後者を「愛する、好む(amō)」と忠実に訳し分けていますが、現代ヘブル語訳新約聖書では、両者とも「アーヘーブ」と訳しています。ここでヨハネは両語を使い分けているのか、同義語として使用しているのかは学者の間でも意見が分かれます。著者ヨハネの文体の傾向と西洋語の性質から同義語的に言葉を入れ替えて使用しているとも考えられます。使い分けている可能性もありますが、ただその意義は解釈者により異なります。

なお、この動詞には「接吻する」(マコ14:44等)の意味もあり、その名詞は「接吻(フィレーマ)」(ルカ7:45等)です。

   c.「愛されている、愛している、友(フィロス)」
      「愛、友愛(フィリアー)」の新約での唯一の用例「世を愛すること」(ヤコ4:4)が、同節で「世の友(フィロス)」と言い換えられます。イエスは、「取税人や罪人の仲間(フィロス)」(マタ11:19等)と呼ばれました。また父のみこころを知らせて弟子を「友」と呼ばれ(ヨハ15:15等)、友のためにいのちを捨てられました(同15:13)。みこころを行う者は、イエスの友(同15:14)、神の友(ヤコ2:23)です。

因みに「友、仲間(タイロス)」は新約では3回だけ出てきますが(マタ20:13,22:12,26:50)、すべて「友よ」という呼びかけです。

   d.合成語
      「愛している(フィロス)」との合成語の「善を愛する(フィラガソス)」(テト1:8)、「善を好まない(アフィラガソス)」(Ⅱテモ3:3)、「兄弟愛(フィラデルフィアー)」(ロマ12:10等)、「兄弟を愛する、兄弟愛の(フィラデルフォス)」(Ⅰペテ3:8)、「夫を愛している(フィランドロス)」、「子供を愛している(フィロテクノス)」(テト2:4)、「人間愛(フィランスローピアー)」(使28:2,テト3:4)、「人間愛に満ちて、親切に(フィランスローポース)」(使27:3)、「金銭欲(フィラルギュリアー)」(Ⅰテモ6:10)、「金銭を愛する(フィラルギュロス)」(ルカ16:14,Ⅱテモ3:2)、「金銭に愛着のない(アフィラルギュロス)」(Ⅰテモ3:3,ヘブル13:5)、「自分を愛する、利己的な(フィラウトス)」(Ⅱテモ3:2)、「快楽を愛する、享楽的な(フィレードノス)」、「神を愛する(フィロセオス)」(Ⅱテモ3:4)、「争い(論争、喧嘩)好きの(フィロネイコス、フィロニーコス)」(Ⅰコリ11:16)、「争い、論争、喧嘩(フィロネイキアー、フィロニーキアー」(ルカ22:24)、「見知らぬ人(旅人、客)をもてなす(フィロクセノス)」(Ⅰテモ3:2等)、「見知らぬ人(旅人、客)をもてなすこと(フィロクセニアー)」(ロマ12:13等)、「一番になることを好む(フィロプローテウオー)」(Ⅱヨハ9)、「知を愛し求める者、哲学者(フィロソフォス)」(使17:18)、「知を愛し求めること、哲学(フィロソフィアー)」(コロ2:8)、「名誉を愛する、熱心に努める(フィロティーメオマイ)」(Ⅱコリ5:9等)、「好意を持って、親切に(フィロフロノース)」(使28:7)、そして上記の「愛、愛情(ストルゲー)」との合成語「愛情深い(フィロストルゴス)」(ロマ12:10)が新約に出てきます。

なお上記の「哲学(フィロソフィアー)」は「知恵を愛する、知を愛し求める」ことを意味しますが、三平方の定理で有名な古代ギリシアの哲学者・宗教家ピュタゴラス(前582頃-前497頃)の造語と言われています。この言葉が古代ラテン語の「哲学(ラphilosophia)」や現代西欧諸語の「哲学(英philosophy, 仏philosophie, 独Philosophie等)」の語源となりました。因みに日本語の「哲学」は、啓蒙思想家・教育者の西周(1829-1897)による訳語です。

  3.本質的意義
     「愛」を表す最も一般的なギリシア語で、友人や家族の間の愛情を表現する、温かさのある美しい言葉です。「愛する(フィレオー)」が後述の「愛する(アガパオー)」と同義的に使用され、父なる神やイエスの愛を表現することもあります。

 

 D.「愛(アガペー)」

  1.意味
     「愛(アガペー)」(Ⅰコリ13:1等)は、新約聖書で多用される言葉で、「愛餐」(ユダ12)の意味もあります。動詞形は「愛する(アガパオー)」(ヨハ3:16等)で、その形容詞が「愛され(てい)る(アガペートス)」(ロマ1:7等)です。

  2.用例
     名詞「愛(アガペー)」は、古典ギリシア語には殆ど使われず、70人訳に20回程、偽典『12族長の遺訓』、『アリステアスの手紙』等のユダヤ教文献に数回出てくるくらいです。

70人訳では、「愛する(アーヘーブ)」が「愛する(アガパオー)」(創22:2等)と、「愛(アハバー)」が「愛(アガペー)」(エレ2:2等)や古形の「愛(アガペーシス)」(ホセア11:4等)と訳されています。

新約では「愛(アガペー)」が116回、「愛する(アガパオー)」が143回、「愛され(てい)る(アガペートス)」が61回、合計320回も出てきます。

  3.本質的意義
     元々は「愛する(アガパオー)」は、尊敬或いは友好的受容を意味する冷静な愛を表し、感情表現の度合いが弱く、「愛する(フィレオー)」のようには温かさがない言葉でした。

しかし、70人訳は、古典期やヘレニズム期に多用された「愛する、手に入れたいと望む(エラオー)」や「愛する(フィレオー)」よりも、「愛する(アガパオー)」を多用しました(266回)。

新約記者も「愛する、手に入れたいと望む(エラオー)」を一度も用いず、「愛する(フィレオー)」よりも「愛する(アガパオー)」を頻繁に用いて、両者ほど特別な意味のない「愛する(アガパオー)」に深い意味を与えました。そして、聖書以前にあまり使われなかった名詞「愛(アガペー)」を用いて、愛の神に起原する真の「愛」を伝えようとしました。他の「愛」を表す言葉は、真の愛には不適切な概念を含むからです。

このように「愛(アガペー)」自体の意味から真の「愛」が導き出されるのではありません。事実、聖書は同語を用いないで、真の「愛」を表現する場合もあります。聖霊が新約記者を通して、「愛(アガペー)」という言葉を新しく用いて、真の「愛」の概念を伝えられたのです。

  4.特徴
     以上の4つの言葉を、「性愛(エロース)」、「親子の愛情(ストルゲー)」、「友愛(フィリアー)」、「神(真)の愛(アガペー)」と明確化することもありますが、実際にはそれほど単純に分けることは困難です。それでも「(真の)愛(アガペー)」を、他の語と比較することにより、その特徴を以下のように示すことができます。

   a.与える愛(ヨハ3:16)
      「愛(エロース)」は、「求める愛」で、自分にとって価値あるものへの愛であり、所有を願う愛です。対照的に「(真の)愛(アガペー)」は相手に「与える愛」です。

   b.意志の愛(マタ5:43-48,黙2:4‐5)
      「愛、愛情(ストルゲー)」は、親子や家族の自然な感情から来る愛です。また「恋に落ちる」と表現するように「愛(エロース)」は、無意識に偶然起こります。対照的に「(真の)愛(アガペー)」は、「意志」と関係があり、生まれつきの性質や感情を克服します。

   c.無制限の愛(マタ5:43‐48,ルカ10:25‐37)
      「愛(エロース)」も、「愛、愛情(ストルゲー)」も、「友愛(フィリアー)」も、愛の対象が制限されます。しかし「(真の)愛(アガペー)」は、その制限を撤廃するのです。

   d.永続する愛(ロマ8:38‐39)
      「愛(エロース)」は、対象の変化や自分の思いの変化により変わります。「愛、愛情(ストルゲー)」や「友愛(フィリアー)」も変わるものです。それは、人間の愛は不変ではありえないからです。しかし「(真の)愛(アガペー)」は、変わることがない、永続する愛です。

   e.神起源の愛(Ⅰヨハ4:10)
      「愛、愛情(ストルゲー)」は、人間に備わっている自然な愛情です。それとは対照的に「(真の)愛(アガペー)」は、人間ではなく「(真の)愛(アガペー)」である神(Ⅰヨハ4:8,16)にのみに起源があります。そしてその愛の現われは、十字架のみわざに見ることができるのです。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

(ヨハネの手紙 第1 4章10節)

 

Ⅱ.「愛」に関する事実
   次に「愛(アガペー)」とその同語源の言葉が使用されている箇所をまとめ、聖書が教える愛についての事実を学びます。

 

 A.御父と御子の愛
    神の本質は「愛(アガペー)」であり(Ⅰヨハ4:8,16)、三位一体の神の位格間に愛の関係があります。

御父は御子を愛され(ヨハ3:35等)、御子は「愛する(アガペートス)子」(マタ3:17等)、「愛する方(アガパオーの完了受動態分詞)」(エペ1:6)、「愛する(アガペーの)御子」(コロ1:13)と表現されています。また御子も御父を愛されています(ヨハ14:31)。

 

 B.神の人への愛
    神は愛する御子を与えるほどに世を愛され(ヨハ3:16)、その御子の犠牲によって御父(Ⅰヨハ4:9,10等)とキリスト(ガラ2:20,エペ5:2等)の愛が示されました。不定過去を用いることによって、神の愛は十字架の死に現われたことが表現されています。黙示録1章5節では、現在形の「愛し」により愛の継続性を示し、不定過去形の「解き放ち」により一回的な救いのみわざを表しています。

また信仰者は、御子と同じように(エペ1:6)「愛されている者(アガパオーの完了受動態分詞)」(コロ3:12)と呼ばれています。またキリストは教会を愛し、教会のためにご自分を献げられました(エペ5:25)。

 

 C.人の神への愛
    神を愛することは第一の戒めですが(マコ12:29‐30等)、神に赦され救われた者は神とイエスを愛します(ルカ7:42,47,ヨハ8:42,エペ6:24,Ⅰペテ1:8等)。イエスを愛している人は、戒めとイエスのことばを守り、父とイエスがその人を愛し、ともに住まれます(ヨハ14:15,21,23)。

神と富を同時に愛することはできません(マタ6:24等)。しかし神を愛する者は、神に知られており(Ⅰコリ8:3)、人の心に思い浮かんだことがないものが備えられ(同2:9)、すべてのことがともに働いて益となります(ロマ8:28)。

 

 D.人の人への愛
  1.愛の命令
     隣人を自分自身のように愛することは第二の戒めです(マコ12:31等)。またイエスは「新しい戒め」として互いに愛することを命じられました。そして、それが主の弟子であることのしるしです(ヨハ13:34‐35等)。兄弟を愛することは命令です(Ⅰヨハ4:21)。「兄弟愛(フィラデルフィア)」は「アガペー」の実現なのです(ロマ12:9‐10,Ⅱペテ1:7)。

  2.愛の起原
     この愛の源は、父なる神の愛です(Ⅰヨハ4:7‐12)。愛は恐れを締め出し神に愛された者として愛するのです(同4:18‐19)。

また人はキリストによって愛を知ります(同3:16等)。キリストの愛は私たちの生き方を変えます(Ⅱコリ5:14‐15等)。父なる神がイエスを愛されたようにイエスも私たちを愛されており、私たちもイエスの愛にとどまるべきです(ヨハ15:9‐10)。

また愛の神の御霊に満たされて愛の実を結ぶことができます(ガラ5:22)。このように「愛(アガペー)」の起源は、三位一体の神にあります。

  3.愛の対象
     愛の対象は、妻(エペ5:25等)、兄弟(Ⅰヨハ4:20‐5:3等)、隣人(ロマ13:8‐10等)、敵(マタ5:44等)へと広がっていきます。イエスは愛を語られただけでなく愛に生きられました(ルカ23:34等)。

 

 E.人格以外への愛
    神はエルサレムを(黙20:9)、キリストは義(ヘブ1:9)を愛されます。
また信仰者は、会堂の上席や、広場であいさつされること(ルカ11:43)、光よりも闇を(ヨハ3:19)、神からの栄誉よりも人からの栄誉を(同12:43)、今の世(Ⅱテモ4:10)、不義の報酬(Ⅱペテ2:15)、世と世にあるもの(Ⅰヨハ2:15)、主よりもいのち(プシュケー/黙12:11)を愛すべきではありません。

しかし、いのち(ゾーエー/Ⅰペテ3:10)、真理(Ⅱテサ2:10)、主の再臨(Ⅱテモ4:8)を愛することが奨励されています。

 

それでは、私たちが神と人を愛し、愛すべきものを愛し、愛すべきでないものを愛さないようにして生きるためには、どのようにすればよいのでしょうか。

それは、第一に十字架にかかられたイエス・キリストを信じ、神から生れることです(Ⅰヨハ4:7‐12)。

第二に、御霊に満たされ(エペ5:18)、愛という御霊の実を結ぶことことです(ガラ5:5:22,23)。

第三に、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるように祈ることです(エペ3:14‐19)。

このようにして愛のうちに歩みましょう(エペ5:1‐2)。コリント教会の御霊の賜物の問題(Ⅰコリ12‐14章)と同じく、私たちの人生の様々な問題の解決の鍵も「愛(アガペー)」です(同13章)。
まず愛がどれほどまでに大切であるかを心に留めましょう(同13:1‐3)。

 

「たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」

(コリント人への手紙 第一 13章1-3節)

 

次に真の愛がどのような形で具現するのかをおぼえ、自分の愛を吟味しましょう。(同13:4-7)。

 

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、 不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。」

(コリント人への手紙 第一 13章4-7節)

 

「愛は決して絶えることがありません。」(同13:8)。無限で永遠の愛をもって神に愛されている私たちは(ロマ8:31‐39)、愛を追い求めたいと思います。

 

「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。愛を追い求めなさい。」

(コリント人への手紙 第一 13章13節ー14章1節)
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